もり塾

3期実践コース開講! 矢印

ハウスワイフはライター志望(16)——「勤めてみる気はありませんか」

専業主婦から出版界で活躍するライター、編集者へ! 森恵子の再就職奮闘記「ハウスワイフはライター志望」第16回。
あこがれのきもの雑誌の編集長と対等に語り合う楽しいひととき。仕事によって少しずつキャリアを積み重ねてきたことを実感します。

目次

仕事が、経験がキャリアになる

新聞社のビルに驚いた私には、今日の出版社のロビーがとても小さく感じられた。受付で編集長の名を告げて、ロビーのソファで待つ。

今日の私は、自信たっぷりを装って編集プロダクションに出掛けた私でもなく、ハンディを数えながら新聞社に出向いた私でもない。

3度めにして、ようやく私は「正しい面接の心のありかた」ならびに「中庸の自信」を身につけたようだ。

エレベーターから体格のよい、柄物開襟シャツの男性が降りてきた。

この人が編集長らしい。

編集プロダクションの「社長」と違ってノーネククイなんだ。それに濃い地色の大きな柄で、そのうえ開襟シャッなんだ。そういうの着るのは、ヤクザ以外にマスコミ関係者がいるんだ。

それって開襟シャツやヤクザやマスコミ関係者に対してとても失礼よ。
落ち着いているつもりが、うわずっている。

編集長は私のほうに近づき、既に立ち上がっていた私はお辞儀をする。

「お忙しいところ、お時間をいただきまして」
「いえいえ。どうぞお掛けください。ここでお話をうかがいましょう」

私は履歴書と作品を取り出す。
「履歴書ですか。ぼくは今まで、こういう場合は見たことがありませんが、せっかくですから拝見しましょう」

新聞の求人広告とは違うんだ。
非公式の場合、プロは作品だけで勝負するんだ。

編集長は履歴書に目を通す。それから私の学歴を話題にする。
トーキョーという場所で人脈のない田舎の大学など、一応の敬意を払われてもむなしいだけだ。
私はあいまいな微笑でごまかし、作品を彼の前に差し出す。

「ずいぶん、いろんなジャンルのお仕事をしていらっしゃるんですねぇ」
「はい、まだ専門分野を持てずにおります」
「ところで、やはりきものはお好きですか」
「はい。とても!    以前、日舞をしていたものですから」
「そうですか——」

あっさりと編集長。
つまらぬ学歴なんか話題にしないで、こちらのほうをもっと感心してほしい。日舞の会に集う贅をこらしたきもの姿、ため息が出そうな着こなしを見て育った私のほうを。

「業界誌の記者をしていらっしゃったから、きものにも、きもの業界にもずいぶん詳しくていらっしゃるのでしょう」
「呉服売場のある首都圏のデパートをすべて取材しましたから、ずいぶん目の保養をさせていただきました」

あの1年半が私のキャリアになったことを、ようやく私は実感する。そして、業界誌とこの雑誌の距離を、私は実際より大きく見積もっていたらしいことに気づく。

勤めてみる気はありませんか

それならもうひとつのPRをしよう。
私がどんなに熱心な愛読者だったか、それを編集長に伝えよう。

「きものを見る目の基礎は、こちら様の雑誌で養ったような気がします。母とふたりでため息をつきながら、ページをめくりましたから」

母と私だけではないはずだ。
この雑誌できものを見る目を養い、コーディネートの方法を学んだのは。
そういう雑誌だもの。
10年前のエッセイも、グラビアのシリーズも、今だって私の目に浮かぶ。

編集長と私は、そんな古い記事について話し込んだ。編集長の声も弾んでいた。
編集長の声の弾みで、私は大きなバッグからガサゴソとファイルを取り出した。

「実は——。お見せするかどうか決心がつかないまま、今号の感想を持ってまいりました」
「ぜひ、拝見したいですね」

ためらいながら出したレポート用紙は、身をのりだした編集長の手に渡った。

編集長は、私の前でレポート用紙に目を通し始めた。真剣な面持ちで。やがて、顔をあげる。
「大変、参考になります」

現在形の編集長の語尾から、本気で私の感想を参考にしてくれそうなニュアンスが感じられた。

私は補足説明を加える。
編集長はうなずく。
私に質問を返す。
私たちのキャッチボールはまた弾んだ。

「ところで」と編集長。
「森さんは、フリーではなく勤めてみる気はないのですか」

唐突だった。
一般論なのか、「うちの編集部に」という意味なのか、その判断がつくより早く、
「はい。まだいろいろしてみたいことがありますので、当分はフリーでと考えています」
そう答えていた。

きものは大好き。ほんとに好き。
だけど、「人」のほうがもっと好き。
きものだけではイヤ。

「そうですか——。申し上げましたように、うちでは外注ライターを依頼しない方針ですので、お願いすることがあるとしても資料集めのような裏方の仕事になると思います」

編集部の方針を知りながら出掛けてきたのだから、私に異存はなかった。

「それから、これからもこんな批評をくださるとありがたいのですが。なにしろ古い雑誌ですからね、ちょっと毛色の変わったことをすると読者のかたから、きついお叱りを受けるんですよ。でも、このままでいいとは決して思いませんしね」

紙面批評を含めた私の感想が、編集長にとって納得のいくものであったことがうれしかった。

私とは違う彼女たち

ふっと話が途切れると、2時間近くたっていた。

「一度、編集部をご覧になりますか」

この人は、次々と意外なことを言う。それもとてもうれしい言葉ばかりを。私は楽しげに「はい」と答える。

エレベーターの数字が1・2・3……と大きくなる。私はそれを見つめている。
数字が増えるたびに、私の脈拍数は確実に増えていく。私の元気は緊張にすり変わる。

もうこれ以上がない数字でエレベーターは静かに止まり、私の脈拍は生後初めての数値になったみたいだ。

「どうぞ」と、編集長。

ため息をつきながら眺めたあの雑誌の編集部が、私の目の前にある。

編集長がそのドアを私のために開け、私はライターとしてその部屋に入ろうとしている。

落ち着いて!
どんなにアガッても当然よね。あこがれの編集部に足を踏み入れる瞬間なんだもの。

エレベーターから編集室までの十歩足らずの距離を歩く間、交互にふたつの声が聞こえる。

混乱よ! 大混乱よ!
そんな悲嗚も聞こえる。

いくつもの編集部に足を踏み入れる「最初」は、もう何度もあったはずなのに。

編集部に入る。
左右にゆったりとしたスペース。
この部屋すべてが、あのひとつの雑誌のための編集室だという。

左側には、20ほどのデスク。デスクまわりには女性編集者が3、4人。彼女たちはこちらを気にも留めず、話し込んだり、きびきび動き回ったりしている。

そんな彼女たちの姿が、私の深い暗いところで、去年の暮れのあの女性編集者たちと重なった。

「私とは違う彼女たち」

私が彼女たちをそう認めたとたん、私はライターではなく、一読者に戻った。

編集長は、彼のデスクから鍵を取り出す。
「きものは高価なものばかりですからね。こうやって鍵をかけて保管しておくんです。ちょっとお見せしましょう」

そう言って、右側にある作り付けの大きな戸棚に歩み寄り、鍵を開ける。
きものは返し終えたところとかで、戸棚の中はからっぽだった。

戸棚の中にきものがあれば、私は息を吹き返し、きもの談義が始まったかもしれない。
しかし、ガランとした戸棚は、ますます私を居心地悪くさせた。

編集長に何を話しかけられても、「はあ」だの「まあ」だの心ここにあらずの返事をした。
さっきからずっと、私の心は同室の女性編集者のあたりをさまよっていた。

編集長のおかげで、すっかり男性の「長」アレルギーは治癒した。すれ違いに「女性編集者」アレルギーがむずむず痒く、少し痛む。

あこがれのあまりにむず痒さを感じたときから、その対象に向かって邁進する女になったことを、私はまだ自覚していなかった。

一枚岩のプロのように見える彼女たちもまた、深く暗い場所で自信以外の感情に揺れるふつうの女たちであることを、私はまだ知らなかった。

ミニコミ誌がらみの小料理店の取材、きものレンタルブティックの取材……。仕事ですから、時には嫌な思いをすることも。それでも着実にライターとしての経験を積み重ねていきます。
Vol.17「あんたのように、押しの強い人でないとできん」は、2023年9月上旬公開予定です。
これまでの話はこちらのサイトで読めます↓↓

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!